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AQL日記

能登麻美子さんを愛する犬AQLの、読むと時間を無駄にする日記です。"非モテの星から来た男"のMEMEを云々。

白紙

■まじかよ。

と言いたくなるような事態に直面して、今日はずっと打ち合わせ。
概ね事態は白紙に戻る。/(=ω=.)\ナンテコナタイ



■信じるということと性善説

知人から「教誨師」の話を聴き、ちょっと興味を持つ。多くの無宗教(という名のいわゆる日本仏教)の日本人からすると馴染みのない職業だが、だからこそ知るべきもののようにも思う。誰か/何かを信じるというのは、とても難しい。裏切られるとか騙されるとか、そういったものに左右されずに、他人を心底信用できる人間はいる。それがすごいと思う。そのひとを信じられるかどうかという基準は人生の中で学ぶしかないが、解りかけては霧の中に解けてしまう。こいつは至極難しい。

性善説とか性悪説とか、そういう対人関係とか人間形成の根底に流れている善悪みたいなものを考えても仕方のないこと。結局はどちらだとかはない、というか、解りようがない。世界はそこまで単純じゃないし、思っているほど複雑でもない。ただ"そのとき"――病だとか死だとか――に、何か/誰かを信じられるか、ということなのだろう。僕は"そのとき"に何か/誰かを信じられるかどうか、自信は持てない。その自信を持たせてやる≒引導を渡してやることが、教戒師の役目なのだろうと考えたとき、信じるということの意味を考えた。「信じられるもの」でなく「信じてもいいもの」。それだったら信じても裏切られないんだという証左が欲しいのだ。葬儀屋として働く友人と話すたびに、僕はそうした宗教の在り方を考える。詮無きことと知りながら。


ところで性善説って前成説と音が似てるとふと気付く。「ハルトゼーカーの小人」の前成説。
僕の「ハルトゼーカーの小人」は誰なんだろう。いわゆる「鯛の中の鯛」――鯛の中にある、鯛のかたちの骨。僕のなかの僕。僕を操作している、僕を突き動かす小さな僕。喉仏の辺りで、小さな、小さなジャッカルが吠える。


どうでも良かった。