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AQL日記

能登麻美子さんを愛する犬AQLの、読むと時間を無駄にする日記です。"非モテの星から来た男"のMEMEを云々。

僕はエドモン・ダンテスにはなれない。~『MGSV』考察~

ゲーム 考えたこと

巌窟王になるということは、人でなくなるということだ。全身の組成が結晶に置き換わるとき、心の温度も下がり続け、やがてはそれもなくなる。苦しみから解放されると同時に、心もなくなるのだ。怒り、悲しみ、憎しみ、すべては消えてしまう」
  (ノワルティエ老/『巌窟王』)

■報復心を持ち続けるということ。

以下『MGSV』『MGSPW』の壮絶なネタバレになります。



『MGSV』に於いて、「第三の子供」は報復心に感化して、まるで寄生するようにその報復心の持ち主のイコンを身にまとう。「燃える男」なら炎、ヴェノム・スネークなら角、スカルフェイスならグリーン・ホーネットを彷彿させるカトーマスクを、それぞれの場面で付けている。それぞれの報復心に呼応するように、他者の「報復心という主体性」をまとう。報復心というのは(概ね)他者からは理解されない、すこぶる個人的なものだ。他者の復讐を肩代わりするというのは、代理戦争とはわけが違う。あくまで当事者が当事者としてなし得なければ、復讐にはならない。復讐を引き継ぐことはできるが、それは本来の純粋な報復心とは、最終的には違ってくる。些末であれ。

報復/復讐を描く『MGSV』に於いて、そのテーマを全面的に押し出すキャラクターにカズヒラ・ミラーがいる。後のマクドネル・ミラーだ。彼は先の事件(『MGSVGZ』)での部隊壊滅、そして失った片腕片脚の報復を誓い、なりふり構わずに汚れていく。前作の陽気さなどどこへやら、ひたすらに血にまみれ、泥に埋もれていく。その姿は、報復のあるべきかたちの一つだと思えこそすれ、それが(倫理規範の面からはともかく復讐として)間違っているようには思えない。

――しかし「第三の子供」は、カズヒラの報復心には反応しない。

なぜなのか。
「第三の子供」にとって、彼の報復心はとるに足らないものなのだろうか。それとも純粋ではないのだろうか。他のキャラクターの報復心に比べて、それは矮小なものだったのだろうか。



■「報復」者に憐れみを。

『MGSV』の大きな元ネタとしてハーマン・メルヴィル『白鯨』、そしてジョージ・オーウェル『1984年』が挙げられることは、ご存知の方も多いに違いない。
主人公である、ヴェノム・スネーク/BIGBOSS。彼らの呼び名、エイハブとイシュメールは『白鯨』から来ている。巨大な鯨・モビーディックに復讐せんとする捕鯨船の船長と乗組員だ。
一方オセロットは、『1984年』のオブライエンと「二重思考」というキーワードで結び付けられる。組織を敵に売ったとされるエメリッヒ博士は「売国奴」エマニュエル・ゴールドスタイン。そしてBIGBOSSは「ビッグブラザー」だ。

こうしてみると主要人物の立ち位置がより明白なものになってくると同時に、色々な考察もできるようになってくる。それについては様々なところで語られているので僕は触れない。
だがここで疑問符が浮かぶ。それではカズヒラ・ミラーという人物は、何に「見立て」られているのだろうか

『MGSV』本編最初のミッションはカズヒラの救出だ。アフガニスタンに送り込まれたプレイヤーは、その果てでカズの無残な身体に「9年前の悲劇」を見ることとなる。ヴェノム・スネークが昏睡していた間、カズはひたすら報復心を燃やし続けていた。幻肢痛にうなされながら、それを鎮めんがために。プレイヤーからしてみれば、前作で(裏で別組織と通じていたとはいえ)陽気だった彼が復讐の鬼へと変貌してしまったこと、そして四肢を欠損させ、杖なしでは歩けないようになってしまったこと、それらはショックであり、復讐の動機づけとしては申し分ないように思える。

……だが、カズはこれ以降、目立った活躍をしない。「クワイエット殺害命令」と「組織の全体主義化」くらいだ。戦場に出ることもなければ、拷問するわけでもない。それを言ってしまえばオセロットも似たようなものだが、オセロットの場合は「未来」があり、同時に「動機」がある。憧れの蛇に陶酔し、果ては自らを蛇へと作り変える、という未来だ。

しかしカズヒラ・ミラー(マクドネル・ミラー)には、そこまで明確な未来はない。きちんと登場するのは『MG2』のみで、『MGS』の時点ではすでに殺害されているからだ。だからこそ、どうしてもその立場が宙ぶらりんに感じられてならない。他のキャラクターが『白鯨』『1984年』のそれぞれのキャラクターに見立てられている中、彼だけが「報復」というテーマを一身に背負うことでどうにかキャラクター性を維持しているように思えてならない。

前作『MGSPW』をやっていないプレイヤーからすれば、マザーベース壊滅も、それほど心に来るものでもない。僕としてはPSPでもPS3でも発展させただけあって、「帰る家」を壊されたことはやはりショックだった。しかしプレイしていないユーザーからすれば単なる映像でしかないし、死体もモブの死体データでしかない。これはどれだけドラマチックでもフォトリアルでも、あるいはドキュメンタリックであっても、それは仕方のないことだ。けれど主要キャラクターが四肢を欠損させていること、それをまざまざと見せられることは、ショックが大きい分、心にも響く。そして言うのだ、「報復を」と。彼はそうして、血なまぐさいテーマ性を一身に背負わされる。ヴェノム・スネークが幾分か冷静・無表情なせいもあって、カズの言動はプレイヤーの気持ちに直接作用する。「9年前の悲劇」の代弁者となる。

エメリッヒ博士が裏切り、パス・チコ・ストレンジラブ博士が死に、あまつさえヴェノム・スネークが「BIGBOSSの身代わり」であった以上、『MGSPW』『MGSVGZ』と『MGSVTPP』をつなぐキャラクターはこのカズヒラ・ミラーだけだ。そうである以上、「9年前の悲劇」に直接「復讐」を誓えるのも彼しかいない。


――では、彼がそれほどまでに希求し、それでいて「第三の子供」に感応されなかった「報復」とはいかなるものだったのか。



■カズヒラ・ミラーは苦悩する。

物語中盤、カズヒラは、スカルフェイスという先の事件の首謀者に対して、一応の報復を遂げることとなる。
しかしその後の彼は、目標を見失い、まるでディストピアの描く管理社会の権化のように、どこかに〝敵〟を捜そうとする。それは内部へと向けられ、ダイアモンドドッグスは疑心暗鬼の相互監視社会へと変貌していく(→小説『1984年』)。もちろんそれは彼とて意図したことではないはずだ。報復を生のよすがにしていた彼にとって、それが果たされたことで、「主体性」を失ってしまったのかもしれない。主体性というと多少語弊があるかも知れないが、『MGSV』をその明白なセリフでもって「復讐モノ」として成立させていた彼が、それでもなお「復讐モノ」として作品を維持しようと躍起になっていたとしたら、それは主体性というよりほかはないだろう。

少なくとも『MGSV』作中で、報復を果たすことができたのは、突き詰めてしまえばカズヒラだけのように見える。他は未遂か、未遂のままその生を終える。しかし報復を果たしてなお、カズヒラは苦悩する。

前作『MGSPW』で描かれたような、核兵器による抑止と相互報復の非現実性。『MGSPW』では「偽装された情報によってなされる一方的な報復攻撃」というギミックが用意されていた。他国によって核兵器が自国へと撃たれたというデータを、どこまで信用し、それに対して報復攻撃へ転化するか。時は冷戦下、下手をすれば全面核戦争が始まる。そんななかでスネークは奮闘し、最後は偽装データを送信していたAIの自壊/自殺によってデータは停止、核報復は防がれる。核抑止の不安定さ/不確実さ、そして機械による即物的な自動報復の確実さ/脆弱さ。それが『MGSPW』の一つのテーマだ。その時点から「報復」というのはスネーク(ビッグボス/ヴェノム・スネーク)の物語の重要なガジェットだった(これに関してはシリーズの根幹をなすテーマ≒親殺しにも通ずる気もするが)。

果たされたはずの報復。カズヒラの報復心は、しかし消えない。



■カズヒラが復讐したかった相手とは誰だったのか。

宿敵であるスカルフェイスを討ち、報復に一応の決着を見たはずのカズヒラ。しかし彼は懊悩する。報復を胸に生きてきた彼は、その目標を果たしながら、腑抜けにはならなかった。むしろ彼の報復心は確実に肥大化し、強固なものへと変貌した。終わりのない報復心は、仲間内にすら〝敵〟を捜すようになる。

復讐に於いて重要なのは、いかに報復心を持ち続けるかということだ。報復心の維持こそが、よりよい復讐につながる。その結果が血道であろうと、復讐の完成度に結果の如何は関係ない。所詮は自己満足だし、それで失くした腕や脚が返ってくるわけでもない。報復心をいかに持ち続けるか。酸のように蝕む報復心に、いつまで心を浸けておけるか。

カズヒラが報復したかった相手は、ともすれば『MGSPW』の自分自身なのではないかと思う。その陽気さを否定するように、(本編中では)徹底して復讐にストイックな生き方を彼は見せる。自らの陽気さ、浅慮さが招いた〝敵〟。しかし彼は内罰的にはならなかった。それはサイファー、スカルフェイスという〝報復相手〟がいたからだ。彼はスカルフェイスを討つことで、仲間の無念が晴らされ、自分の喪失感を取り戻せると考えた。そしてそれだけを目指し、そして復讐を果たす。その復讐自体は血と泥にまみれ、そして決着の銃声は忸怩たるものが残るものだったが。

復讐相手をなくしたことで、カズヒラは次の復讐相手を捜さざるを得なくなった。それは「主体性」を報復に捧げ、自己を否定するために「報復」にのめり込んだ彼が、それでも自身へと矛先を向けられない弱さからくるものではないだろうか。アニメ『巌窟王』に於いて「苦しみから解放されると同時に、心もなくなるのだ」という台詞がある。彼は復讐を遂げ、なおそれでも心の維持を図ろうとした。それが、新たな〝〟を見付けるということだった。

彼にとっての報復は、決してスカルフェイスにだけ向けられているものではなかった。大きすぎる相手を報復対象を仮定するあまり、個々への復讐心は薄いものになっていたのではないか。
それは報復心のすべてをBIGBOSS相手に傾けていたスカルフェイスやイーライたちの純粋さとは大きく違っている。多くの存在を敵とするあまり、その矛先の照準が定まっていない。それこそが、「第三の子供」が彼の報復心に呼応しなかった理由ではないだろうか。定まらない照準。復讐という言葉を頻繁に口にすることで報復心を鼓舞させる。復讐に生きながら、あまりにも脆弱な〝復讐性〟を持つカズヒラ。彼のその脆弱性を「第三の子供」は見抜いていたのではなかろうか。そしてその脆弱性は、脆弱であることを糊塗するために殊更に強大かつ確固たるものであるとアピールすることにつながっている。物語の根幹をなす「報復」というテーマを、不必要なまでに表に出す彼の行動は、この脆弱性に起因するのではないかと僕は思う。

仮想敵を用意しなければ脆弱な報復心を維持できず、報復心がなければ生を維持できない。その結果が、『MGSV』でかたくなに義手義足をつけない理由であり、ラストでのオセロットとの対峙での言葉であり、また不具の身でありながら『MGS』(R・ベンソンによる小説版)でひたすら筋トレに励むストイックさにつながっているように思える。スカルフェイスを討つことで晴れなかった報復心は、きっと自身の過去の失態へと向けられていて、しかし彼はそれを容認できなかった。パスを責め、スカルフェイスを撃ち、エメリッヒ博士を拷問にかけ――彼は常に報復心を上書きしていく。幻肢痛を鎮めるために、彼は常に〝敵〟を捜す。目的と手段が入れ替わり、報復が彼の生きることに代替される。『MGSPW』で報復の不確実さを間近にしながら、しかし彼は報復の連鎖へと足を踏み入れる。仲間を喪った痛みを忘れぬよう義肢を付けないと言い張る彼にとって、既に報復は、(自罰的な側面も含め)人生の一部へと変容していた。

「怒りとは、何よりもその入れ物をよく溶かす酸である」というマーク・トゥエインの言葉を献辞に引用する『MGSV』。その〝酸〟を他の誰よりも体現しているカズヒラ・ミラー、彼が後に『MG2』硫酸トラップの回避方法をソリッドに教えるというのは、何とも皮肉が過ぎるように思えてならない。彼は怒りという酸に身を浸し、その矛先を果てはBIGBOSSにすら向け、そのBIGBOSSの用意した酸を中和する術をソリッドへ教えるのだ。



■復讐の果て、妄執の果て。

MGS5が『MGSV』として発表されたとき、僕はVフォー・ヴェンデッタを真っ先に思い出していた。ヴェンデッタ(Vendetta)とはイタリア語の「復讐」だ。でも小島監督Vフォー・ヴェンデッタは駄目だったってどこかで読んだ気がするな。結果として読みは外れ、VはVendetta(復讐)ではなくVenom(毒/恨み)として作中で扱われた。

閑話休題。この『Vフォー・ヴェンデッタ』の主役・仮面の男が愛する作品として、『巌窟王』が登場する。復讐と言えば『巌窟王』を想起される人も少なくないと思う。復讐モノの傑作だ。富と権力、そして知力を用いて復讐を果たそうとするエドモン・ダンテスに、Vは己を重ねる。

巌窟王』のエドモン・ダンテスには未来がある。復讐を果たした後で、それでも未来がある。復讐という檻から解放され、愛に生きるという選択肢があった。ではカズヒラ・ミラーはどうだろうか。彼は『MGS』の時点ではアラスカに隠居しているが、『MG2』時点では娘をもうけている(妻とは別居)。彼は愛に生きられたのだろうか。

「忘却こそが最大の復讐」という格言がある。
複雑に絡み合った『メタルギア・サーガ』に於いて、カズヒラ・ミラー(マクドネル・ミラー)というキャラクターは実にシリーズ毎で様々な描き方をされてきた。それこそ一貫して裏で暗躍していたオセロットとは違い、その設定は宙ぶらりんであり、ストーリーを進めるための狂言回しの立場であることも否めない。それはあくまで主役は「蛇」であるという絶対条件の下、割かれる筆の割合が比較して少ないことにも起因する。彼が何を思い、何のために報復を掲げて戦っていたのか。そしてその結末はどこへつながったのか。『MG2』でソリッドを手助けすることでBIGBOSSへ一矢報いたことで満足したのだろうか。それとも復讐を忘れ、エドモン・ダンテスのように愛に生きることを選んだのだろうか。もし『MGS』で彼が義肢を使っているという描写があれば、彼は報復から身を引いたということになったかもしれない。けれど時系列は複雑な円環を描き、設定は二転三転した。結果、彼の選択は闇に葬られた。義肢でも不具でも、鬼教官と呼ばれることはできるからだ。

だが彼は常に〝敵〟を捜し、幻肢痛を消し去ろうと躍起になっていた。無くなった四肢が痛むからといって「幻肢」を撫でさするわけにもいかない。幻肢痛を治める方法としては、鏡に映した健在の方の四肢をなくした四肢にみたててやるというものがある。結局は脳内の心的誤解であり、その誤解を代替行為で埋めてやることで治めるらしい。その治療法がミラーセラピー(Mirror therapy)という名称であることも、彼のミラー(Miller)という名前との面白い符合かもしれない。とかく、そうして幻肢を実肢で代替して誤解させてやることで幻肢痛は緩和する。カズヒラの報復は、この幻肢痛を取り除くということだったのではないだろうか。

本来存在しない幻肢にはもちろん麻酔は効かない。実在する四肢をそう誤解させるしかない。カズヒラの報復もまた、存在しない復讐相手への怒りを、代替的にぶつけることで誤魔化そうとしたものではなかっただろうか。存在し得ない痛みに恒久的に悩まされる彼は、代替的なものへ怒りをぶつけることで痛みを和らげようとする。しかし相手(痛み)は本来存在しないものなのではないだろうか。そしてその原因は、己自身に起因するのではないだろうか。

MGSPW』での、偽装されたデータの、存在しない核ミサイルのように。そしてそれに対する「一方的な報復」のように。

彼は最後まで、報復心を絶えず持ち続けたと僕は考える。「苦しみから解放されると同時に、心もなくなるのだ。怒り、悲しみ、憎しみ、すべては消えてしまう」、それを恐れ、その「主体性」の維持のために、カズヒラは復讐心に身を灼かれ続けたのではないだろうか。

『MGSV』でBIGBOSSと袂を分かち、ヴェノム・スネーク側につき、ソリッドを育てBIGBOSSを討つと宣言したカズヒラ。けれどそのソリッドは『MG』でヴェノム・スネークを殺すことになる。それでもカズヒラはソリッドを育て、『MG2』では見事BIGBOSSを討つことになる。なぜヴェノム・スネークを殺したソリッドを、それでも彼は育てたのか。これこそが、彼にとって〝敵〟は〝敵〟であれば誰でも良かった、という事を意味しているように僕は思う。片腕と片脚、そして視力を失い(どこかの鋼と焔の錬金術師を足した感じだ)、発散できぬまま膨れ上がる怒り。自ら向けられぬその矛先は、他者の手によって足によって目によって、〝敵〟へと向けられる。その〝敵〟は、〝敵〟であるならば誰でもいいのだ。そして自分自身でなければ。

「カズヒラには気を付けろ」

というコードトーカーの台詞。これは、カズヒラが「怒り」の矛先を〝自分以外の全方向〟へ向けざるを得なくなることを危惧してのものだったのではないだろうか? ファントムであるヴェノム・スネークをサポートし、ソリッドを育て、BIGBOSSを討つ。そこには彼自身の満足への果て無き道程が刻まれている。彼は復讐に取り憑かれるあまり、〝敵〟を殺すことだけが幻肢痛を治める方法だと錯覚してしまった。自分自身の不甲斐なさのツケを、周囲に敵愾心を向けることで誤魔化そうとしたのではないか。ダイアモンドドッグスを全体主義化させたのも、ヴェノム・スネークを殺したソリッドを育ててBIGBOSSを討とうとしたのも、アラスカで隠居しつつ筋トレに励んでいたのも、その「9年前の自分自身」への怒り、そしてそれをアウトサイドへと向けた結果なのではないか。自身の慢心への怒り、暗躍していたことのツケ、騙されていたことへの恨み。



■復讐のためだけに。

あれだけ報復を言葉にしながら、「第三の子供」には感応されなかった彼の報復心。対象が多すぎるがゆえに矮小で脆弱な復讐心。そして報復によってしか確立することのできない彼の主体性。――あるいは彼に報復を誓わせることでしか「復讐/報復」というテーマ性を維持できなかった『MGSV』。報復心を持ち続けることは、延々と身を裂かれる痛みに耐えるということだ。報復心からくる幻肢痛を、報復で埋めるしかない「弱さ」こそ、『MGSV』のテーマのように思える。彼は報復の連鎖に身を落とし、誰を討つことでもきっと晴れることのない虚ろな報復心を背負わされた。自分たちの過ちへの呵責を、他者への報復に転嫁し、治まらない幻肢痛を「復讐(という名の行為)」で誤魔化す。

〝敵〟を他者に見出すことで、そしてそれを報復と名付けることで、どうにかバランスをとってきた彼の人生は、『MGS』にて幕を閉じる。それは復讐の連鎖の果ての、希望だったのかもしれない。連鎖してしまった報復は――その酸は、身を溶かし切るまで静まることはない。泥沼の復讐から抜け出すには、死ぬか、愛に生きるしかないのだ。きっと彼はそうはなれなかった。彼はエドモン・ダンテスにはなれなかった。純粋な復讐心も持てぬまま、純粋でないからこそ晴れない復讐心に、ただただ身を裂かれながら、彼は生きたのだろう。

『MGSV』のラストで彼はオセロットに言う。

「9年前まだ俺達は何も喪っていなかったんだ。
 俺は今度こそ本当に全てを喪った。
 ボスもボスとともに築く明日も」

 (カズヒラ・ミラー/『MGSV』)


彼は「報復」だけを生のよすがに生きながら、『MGSV』では更なる喪失感にさらされることになる。果たしたはずの「報復」に満足できず、更には信頼していたBIGBOSSまでもその手から離れてしまった。喪い、失い、そうして彼は何を得たのだろうか。



三島由紀夫の自決に考えさせられて自衛隊を除隊した過去を持つカズヒラ。三島由紀夫は自決の際にバルコニーから撒いた檄文で、こう書いている。

より深い自己欺瞞と自己冒涜の道を歩もうとする自衛隊は魂が腐ったのか。武士の魂はどこへ行ったのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になって、どこかへ行こうとするのか。
 (三島由紀夫『檄』)

専守防衛に馴染めず自衛隊を除隊しアメリカに戻ったカズヒラは、そこでスネーク(BIGBOSS)と出逢う。スネークと作り上げた組織MSFは強大なものへとしていき、果ては核武装まで至る。しかしMSFマザーベースは『MGSVGZ』のラストで壊滅、カリブ海に沈む。専守防衛でなく、魂の死んだ武器庫でもない。カズヒラがそうありたいと願ったかは解らないが、少なくとも彼にとって、力は必要だった。だがその力は、それより大きな力によってたやすく瓦解した。エメリッヒ博士が実際に裏切り者だったのかはともかくとして、そう思い込んだ彼は、向けようのない「怒り」を、果たしようのない「報復」を誓う。しかしそれは「幻肢痛」なのだ。

あるはずのない幻に踊らされ、報復の連鎖に身を落とす。それはビジネスパートナーであったサイファーに向けられ、かつての仲間であったエメリッヒ博士やパスに向けられ、クワイエットに向けられ、「共生」するオセロットに向けられ、そして敬愛していたはずのBIGBOSSへと向けられた。そしてその「怒り」は妻子をもつことでは払拭できなかった(『MG2』)。彼は最後まで〝敵〟を見付けようと躍起になり、有り余るほどの力を手にしようと奮起し、そして殺される。

「自分をどんなに正当化したって、
 人殺しは人殺しじゃないか!
 伯爵も、父さんも、そうやって逃げてるだけじゃないかよ!
 そうやって意地を張り合って、
 自分をだまし続けてるだけじゃないか!」

  (アルベール/『巌窟王』)


「復讐」するということは、何かを騙すということだ。仇を討ったという自己満足、取り返したという自己満足、死んでいった仲間のためという自己満足。それらはすべて自己満足、そして同時に、自己欺瞞でしかない。とはいえ、それを否定する気はない。「復讐して何になる」なんて茶番めいた陳腐な台詞を吐くつもりもない。ただ、「復讐」の満足は、何らかの「不満」を騙す(麻痺させる)ことでしかない。けれど同時に「騙す」ということは、「折り合いをつける」という意味でもある。クワイエットが「言葉」を捨てたことで「報復心」に折り合いをつけられたように。

だが彼は「報復心」を騙してなお「主体性」を持てない宿命を背負っていたのではないだろうか。『MG2』でソリッドの側につきBIGBOSSを殺させ、『MGS』では殺された挙句リキッド(イーライ)になり代わられる。「復讐」というテーマと、閉塞した未来を背負って、カズヒラは踊らされたのだ。復讐という、視野狭窄の世界で、彼は妻子にも希望を見いだせず、ただひたすらに「報復」へと突き進んだ。

「報復心」を騙せないなら、解放されるには死ぬしかない。
それは燃える男やスカルフェイス、あるいはリキッドも同じだ。だがカズヒラと違って彼らの〝敵〟は明白だった。スカルフェイスの場合は巨大すぎるものが相手だったけれど、それでも破壊するすべは手に入れていた。巨大であるが、明白だった。それはテロに対して拠点を空爆することで対抗できた00年代までの力関係の図式と似ている。しかしカズヒラの〝敵〟は、姿の見えない、そして範囲の広すぎるものだった。これは先とは反対に、帰属する国や土地を持たず、個の単位でのテロリストを相手にする10年代からの力関係と似ている。

自らを「勝者アメリカの子」であると言い、「アメリカこそが祖国だ」と言っていた幼いカズヒラ・ミラー。とある見方をした時に、「絶対的な力でのみ突き進んできたアメリカ」と彼の姿が、重なって見えてならない。本来であれば「サイファー」こそがアメリカなのだけれど、そうではない暗喩として、カズもまたアメリカを背負っているように思える。アメリカ、それも「強いアメリカ」を。

だが911以降、アメリカはどんどん疲弊している。「見えない敵」を相手に、泥沼の戦いに身を浸そうとしている。「戦争は変わった」とオールド・スネークは言う。「強いアメリカ」であった時代は終わりを迎え、変わりつつある。そんなアメリカとカズヒラ・ミラーを重ねたときに見えてくるのは、力を求め、力に固執した余り、その終わりのない「報復の連鎖」に崩壊していく、そんな結末なのかもしれない。



『MGSV』の「報復」という暗く重いテーマを表象するキャラクターであるカズヒラ・ミラー。〝敵〟がいることによって高まるアメリカの愛国心と、〝敵〟を作ることで維持されるカズヒラの「主体性」――。

メタルギア・サーガ』において、アメリカは絶対的なものとして君臨し続けるけれど、僕にはこのカズヒラというキャラクターの存在が、崩壊へと突き進むアメリカひそかに象徴しているように思えてならないのだ。