AQL日記

能登麻美子さんを愛する犬AQLの、読むと時間を無駄にする日記です。"非モテの星から来た男"のMEMEを云々。

生い立ちと向き合うということ。

かつて人類には、わたしがわたしであるという思い込みが必要だった。
      (伊藤計劃『ハーモニー』)

■姉。

昔どこかで目にしたものだから、確実なこととは言えないのだが、所謂『姉好き』(お姉ちゃん属性嗜好)というものは、「少年期に異性から十分な愛を与えてもらえなかったことに起因する」らしい。ほんとか? 真偽はともかくとして、僕は、姉が好きだ。それについて、というか、自分の生い立ちについて、ふと思い立ったので、目を向けてみる。あんまりまとまっていないかも、しれないけれど。



■生い立ちへの復讐。

何かを表現しようとする者たちは、
「おいたち」が与える感性への影響から逃れることはできない。

幾原邦彦 (@ikuni_noise) 2013年4月25日)


敬愛するアニメ監督・幾原邦彦さんはかつてそう述べた。僕はこれを読んだときに、50口径のホローポイント弾で心臓を吹き飛ばされたかのような(多少誇張)衝撃を受けた。自分に照らし合わせてみると、なるほど、僕の創作活動は生い立ちへの復讐だった。

生い立ちへの復讐。幾原監督はそれについてこう書いている。

当人が望む望まないにせよ、誰しもにとって、創作や表現は「おいたちへの復讐」として姿を現す。キラキラの世界を描く者は、そのことで「おいたちに復讐」している。ダークな物語を描く者は、そのことで「おいたちから解放」される。やさしい物語を描く者は、そのことで「おいたちを許して」いる。
 (幾原邦彦 (@ikuni_noise) 2013年4月25日)


自分の生い立ち。
自分の痩せこけた人生たるものの鳥瞰……。

突然こんなことを書こうと思ったのには、当然理由があった。



■人生の欠落。

当人が望む望まないにせよ、誰しもにとって、創作や表現は「おいたちへの復讐」として姿を現す。キラキラの世界を描く者は、そのことで「おいたちに復讐」している。ダークな物語を描く者は、そのことで「おいたちから解放」される。やさしい物語を描く者は、そのことで「おいたちを許して」いる。
 (幾原邦彦 (@ikuni_noise) 2013年4月25日)


幾原監督は、大勢の妹に囲まれるアニメに対して、『決して単なるドリームではなく、「まさに、おいたちによる切実な欠乏」から生じた物語なのです。』原文ママとも書いている。創作活動によって、自らの過去の欠乏を埋めようというところに、作品の端緒はある、ということだろう。

それを顧みたときに、自分の創作活動に於いてはどうだっただろう、と考える。さすがに大量の妹に囲まれたり白馬の王子様が出てきたりはしないけれど、概ね僕の過去の欠落を補完するパーツであることは否めない。だがそれは、往々にして創作の上では欠かせないものなのだと僕は思う。ではものを作る上で、欠落≒不幸は絶対に必要なのだろうか。

『幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭はその不幸の様を異にしているものだ』
  (レフ・トルストイアンナ・カレーニナ』)


ロシアの作家トルストイはこう書いている。つまりどういうことか。『魔法先生ネギま!』に於いては、

「幸せな奴はつまらん」ということだ。
 幸福な輩に語るべき物語はない。
 不幸と苦悩こそが人に魂を宿す。

  (エヴァンジェリン/『魔法先生ネギま!』)


と解釈させている。これはつまり「生い立ちへの復讐」にも通ずるところがあると言える。それではやっぱり、不幸は作品のとして欠くことのできぬものなのであろうか。

……僕はこれに賢答を持てない。



■創作と復讐。

かつてはそうだったと言える。そうだったのだろうと言える。

創作活動がまだ生活の延長線上にはなかった頃、彼ら作家は魂を焦がしながら作品に向かっていた。そうしなければならないという確固たる焦燥があった。彼らは優れた作品を遺し、あるいは脚光を浴びることなく、あるものは心中し、あるものは服毒自殺し、まるでその生涯すら一篇の作品化のように凄絶に。

だが時代は変わった。冷戦は終わり、人類は月を目指すことをやめ、WTCが崩落し、いつの間にやら「時に、西暦2016年」人類補完計画が発動することもなく、2016年になってしまった。そんな現代。


創作活動は、いつの間にか、片手間でもできる、生活の一部になってしまっていた。


デジタルが発達し、自主映画の製作費もぐっと減り、プロと同じソフトを揃えられるようになり、ハウツーが溢れ、楽器が弾けなくても曲が作れる時代になり、結果として見よう見まねでの参入がどっと増えた。いつの間にか、広義の創作活動は「生い立ちへの復讐の場」ではなくなってしまった。では、どういうことになるか。彼らは、「幸福な家庭」でありながら、先人たちの模倣だけで「不幸な家庭」を作ろうとしているようなものなのか?

だが実際、「生い立ちへの復讐」なんてものは、往々にして観客からは些末なものに過ぎない。飽きずに見られればいいという短絡的な思考が、創作活動をビジネスへと変えた。真剣で切実な復讐心からくる作品たちが、空っぽの模造品で代替される時代になってしまったのだ。

例えば映画で言えば、単館系だったり、海外のちょっと地味めな作品だと、そういう復讐心から来ているのであろう作品に出逢えたりもする。それが決して面白いかどうかは別として、そういうものも少なからず、在る。だがそういう作品には、なかなか出資が集まりづらい。誰だって大手の有名な作品の方が良いのだ。

温室で育った野菜に、天然の野菜が駆逐される。こう言ってしまうと語弊があるかもしれないが、そういった面も少なからず感じたりする。

だったら時代に合わせて、潮流を迎合すべきなのだろうか。



■魂を削るということ。

「創作は生い立ちへの復讐だ」という言葉を嘲るひとたちは、少なからずいる。困ったことに創作の現場に於いてもだ。そういうひとたちは往々にして、例えばカメラならシャッターを切るだけで、例えば音楽なら弦を鳴らすだけで、例えば裁縫ならミシンを動かすだけで、それぞれが完成すると思っている。机上の理論ばかりを振りかざして、根本を理解していないことが多い。彼らはきっと否定するだろうが、そういう彼らの作るものは、どこか、どこにでも落ちていそうなもの、あるいはそれらのパッチワークだったりする。しかしそういう観客の人生に当たり障りのない作品が好まれている側面があることもまた事実だ。消費される物語たち……。


作品を生み出すということは、ともすれば苦行だ。魂を削らなければならない。「何事も嫌になってからが本番」という言葉の通り、創作というのはどこか苦痛であるべきだと僕は思う(勿論その苦痛を「苦痛と思うか」は別の問題だ)。創作行為を分娩に例えれば、何人もの子供を産み落とさなければならない。しかしそれは同時に、作者自身へと返ってくるものでもある。「子供がいないと母親は存在できない、だから子供を手放さない」。それと似て、作家たちも自分の作品を以って、作家たりえるのだろう。


まるで、「わたし」が「わたし」であるということの証左のように。


僕の人生は決して平易なものではなかったと思うし、掃いて捨てるほど世界に溢れた幸福でもなかったと思う。そしてその欠落を、作品の登場人物たちが埋めていく。あの日出来なかったことを、登場人物は乗り越えていく。そのことで以って自己の欲求不満を満たす。まるでタイムマシンで過去を改竄するように、代替行為として登場人物たちは作者の人生の欠落の補完を促す。それがいいことかどうかは別としてだ。

もし「生い立ち」への復讐心が、創作や表現の源泉ならば、個人の中にある物語は、そう幾つもないだろう。自分の中にある物語もそうだ。
  (幾原邦彦 (@ikuni_noise) 2013年4月25日)


「人生の欠落」が作品の原動力になるとしたら、僕の人生は作家として合格点なのだろうか。そして同時に僕はこうも思う。――僕はきっと倖せになった日に、ものを作れなくなるだろう、と。


創作行為に「生い立ちへの復讐」を持ち込まないひとたちは、倖せになっても(≒欠落が補完されても)創作行為を続けられるに違いない。「創作行為=生い立ちへの復讐」という考えに則れば、そうでない作品群は既成作品のパッチワークに過ぎないからだ。勿論これが暴論だということは解っている。だが僕には、倖せになったあとで物を作るということに対する意識を、金を稼ぐという以外の方向で考えられない。創作するために生きるのではなく、生きるために創作をする。それは例えば、アーティストとクリエイターの違いと言ってもいいかもしれない。


僕は倖せになるために作品を生み出す。
倖せになるということは、承認欲求が満たされることかもしれないし、誰からも愛されるということかもしれない。たった一人の女性を愛し続けることで果たされることかもしれない。
けれどそのために、その欠落を埋めるために、僕は、僕自身の、生い立ちに対して、向き合って行かなければならないと思っている。

倖せに生き、倖せに作品を作ること、それもまた否定はしない。そうやって生み出される傑作もあろう。だが僕には、それは出来ない。僕はぼろぼろの人生を、どうにかこうにか補完することでしか倖せにはなれない。そしてその補完は、きっと作品の登場人物たちの手にかかっている。


僕は「僕」でありたいと思っている。
人生に折り合いをつけることが「オトナになる」ということならば、僕はまだ幼年期の終わりにすら立てていないのかもしれない。だがそれもまた良しだ。ひとはいつか死ぬ、早いか遅いかだけだ。その人生がどうあったかを決めるのはいつだって他人だ。だったら自分のやりたいようにやって、社会評価点なんてものはカエサルのものはカエサルに」だ。死んだ後に気にすることじゃない。

そうして僕は、せっかくこうして欠落を残したまま成長してくれた「自分の生い立ち」に感謝し、感謝の言葉を呪詛のように囁きながら、それに復讐していくことだろう。「生い立ち」に「欠落」がある限り、僕は僕であり続けるための創作活動に魂をじりじりと焦がすことが出来る。欠落のない人間がいまさら欠落を作れないように、その欠落こそが「僕である」ということに繋がる。

その果てで生まれたものが、倖せの温室で育った人間たちの作品と比して、どうあるかを決めるのもまた、僕ではないのだ。


「人生の欠落」とは本来「不自由」なものである。恵まれた環境や倖せな人生という「自由」は、犠牲となってしまったということだからだ。だが僕は、少なくともこうして「他人とは違う欠落」を以って作品を生み出せる機会を得たことに、そしてそうして得た「復讐で以って創作するという自由」に対して、感謝を捧げるばかりである。

そして今日もまた僕は、書き途中の脚本に向かうのだ。

ある自由を犠牲にして、別の自由を得る。ぼくらは自分のプライベートをある程度売り渡すことで、核攻撃されたり、旅客機でビルに突っこまれたり、地下鉄で化学兵器を撒かれたりすることなく生きていける。
       (伊藤計劃虐殺器官』)