AQL日記

能登麻美子さんを愛する犬AQLの、読むと時間を無駄にする日記です。"非モテの星から来た男"のMEMEを云々。

好きになった女の子が部屋にルドンの絵を飾ってたらどうしようとか考えてみたけど答え出ないからやめるね。

「美は世界を救う」
  (ムイシュキン公爵/『白痴』)


小川洋子先生の『余白の愛』という作品で、突発性難聴にかかった女性が、速記者の男性の「速記をする手」に惹かれる――という展開がある。
今日仕事中、そう言えば僕は学生のころ、綺麗な女性の「キーボートをタイプする音」がすごい好きだったな、というのを想い出した。僕はなんというか、「できる女性」に惹かれる傾向がある(デキる姉属性のだけれど、キータイプの音に興奮するというのはなんとも眉を顰められそうな話だ。いや、まあ、綺麗な女性の、というか、僕の好きになる傾向としてキータイプは速いのだ。なによりそのリズムがいい。いつまでも聴いていたくなるキータイプをする女性。今日仕事先でアシスタントの女性が、気持ちのいいリズムで打鍵していて、学生のころに好きだった女の子を想い出したのだ。それもまた、少年の日の心の中にいる青春の幻影なのだが。



■最近観た映画。

アデル、ブルーは熱い色

アデル、ブルーは熱い色 スペシャル・エディション [Blu-ray]

アデル、ブルーは熱い色 スペシャル・エディション [Blu-ray]

レア・セドゥ好きなのにようやくの鑑賞。僕としては『美しいひと』の方が好きなのだけれど、短髪青髪の彼女も悪くなかった。そしてやっぱりすごく綺麗なおっぱいだったなあ。この映画の問題点は主人公アデルが気に喰わないところ。レア・セドゥはよかったよ。


『PERSONA3 THE MOVIE #4 Winter of Rebirth』
www.p3m.jp
遂に『P3』四部作が完結ということで会社帰りに鑑賞。板野サーカスばりの戦闘シーンは背筋がざわつくくらいの迫力があった半面、尺いっぱいに無理矢理詰め込んだような展開ゆえか、#2のときのように心の深いところまで沈んでいくような気持ちが起こらなかったのは少し残念にも思う。四部作の完結として良い落としどころに着地したと思う。そしてまみこは相変わらず使えない子だったけど、そんなまみこが僕は大好きだよ。まみこの声聴いて嬉ションしそうになったのは内緒だよ。


 

生い立ちと向き合うということ。

かつて人類には、わたしがわたしであるという思い込みが必要だった。
      (伊藤計劃『ハーモニー』)

■姉。

昔どこかで目にしたものだから、確実なこととは言えないのだが、所謂『姉好き』(お姉ちゃん属性嗜好)というものは、「少年期に異性から十分な愛を与えてもらえなかったことに起因する」らしい。ほんとか? 真偽はともかくとして、僕は、姉が好きだ。それについて、というか、自分の生い立ちについて、ふと思い立ったので、目を向けてみる。あんまりまとまっていないかも、しれないけれど。



■生い立ちへの復讐。

何かを表現しようとする者たちは、
「おいたち」が与える感性への影響から逃れることはできない。

幾原邦彦 (@ikuni_noise) 2013年4月25日)


敬愛するアニメ監督・幾原邦彦さんはかつてそう述べた。僕はこれを読んだときに、50口径のホローポイント弾で心臓を吹き飛ばされたかのような(多少誇張)衝撃を受けた。自分に照らし合わせてみると、なるほど、僕の創作活動は生い立ちへの復讐だった。

生い立ちへの復讐。幾原監督はそれについてこう書いている。

当人が望む望まないにせよ、誰しもにとって、創作や表現は「おいたちへの復讐」として姿を現す。キラキラの世界を描く者は、そのことで「おいたちに復讐」している。ダークな物語を描く者は、そのことで「おいたちから解放」される。やさしい物語を描く者は、そのことで「おいたちを許して」いる。
 (幾原邦彦 (@ikuni_noise) 2013年4月25日)


自分の生い立ち。
自分の痩せこけた人生たるものの鳥瞰……。

突然こんなことを書こうと思ったのには、当然理由があった。



■人生の欠落。

当人が望む望まないにせよ、誰しもにとって、創作や表現は「おいたちへの復讐」として姿を現す。キラキラの世界を描く者は、そのことで「おいたちに復讐」している。ダークな物語を描く者は、そのことで「おいたちから解放」される。やさしい物語を描く者は、そのことで「おいたちを許して」いる。
 (幾原邦彦 (@ikuni_noise) 2013年4月25日)


幾原監督は、大勢の妹に囲まれるアニメに対して、『決して単なるドリームではなく、「まさに、おいたちによる切実な欠乏」から生じた物語なのです。』原文ママとも書いている。創作活動によって、自らの過去の欠乏を埋めようというところに、作品の端緒はある、ということだろう。

それを顧みたときに、自分の創作活動に於いてはどうだっただろう、と考える。さすがに大量の妹に囲まれたり白馬の王子様が出てきたりはしないけれど、概ね僕の過去の欠落を補完するパーツであることは否めない。だがそれは、往々にして創作の上では欠かせないものなのだと僕は思う。ではものを作る上で、欠落≒不幸は絶対に必要なのだろうか。

『幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭はその不幸の様を異にしているものだ』
  (レフ・トルストイアンナ・カレーニナ』)


ロシアの作家トルストイはこう書いている。つまりどういうことか。『魔法先生ネギま!』に於いては、

「幸せな奴はつまらん」ということだ。
 幸福な輩に語るべき物語はない。
 不幸と苦悩こそが人に魂を宿す。

  (エヴァンジェリン/『魔法先生ネギま!』)


と解釈させている。これはつまり「生い立ちへの復讐」にも通ずるところがあると言える。それではやっぱり、不幸は作品のとして欠くことのできぬものなのであろうか。

……僕はこれに賢答を持てない。



■創作と復讐。

かつてはそうだったと言える。そうだったのだろうと言える。

創作活動がまだ生活の延長線上にはなかった頃、彼ら作家は魂を焦がしながら作品に向かっていた。そうしなければならないという確固たる焦燥があった。彼らは優れた作品を遺し、あるいは脚光を浴びることなく、あるものは心中し、あるものは服毒自殺し、まるでその生涯すら一篇の作品化のように凄絶に。

だが時代は変わった。冷戦は終わり、人類は月を目指すことをやめ、WTCが崩落し、いつの間にやら「時に、西暦2016年」人類補完計画が発動することもなく、2016年になってしまった。そんな現代。


創作活動は、いつの間にか、片手間でもできる、生活の一部になってしまっていた。


デジタルが発達し、自主映画の製作費もぐっと減り、プロと同じソフトを揃えられるようになり、ハウツーが溢れ、楽器が弾けなくても曲が作れる時代になり、結果として見よう見まねでの参入がどっと増えた。いつの間にか、広義の創作活動は「生い立ちへの復讐の場」ではなくなってしまった。では、どういうことになるか。彼らは、「幸福な家庭」でありながら、先人たちの模倣だけで「不幸な家庭」を作ろうとしているようなものなのか?

だが実際、「生い立ちへの復讐」なんてものは、往々にして観客からは些末なものに過ぎない。飽きずに見られればいいという短絡的な思考が、創作活動をビジネスへと変えた。真剣で切実な復讐心からくる作品たちが、空っぽの模造品で代替される時代になってしまったのだ。

例えば映画で言えば、単館系だったり、海外のちょっと地味めな作品だと、そういう復讐心から来ているのであろう作品に出逢えたりもする。それが決して面白いかどうかは別として、そういうものも少なからず、在る。だがそういう作品には、なかなか出資が集まりづらい。誰だって大手の有名な作品の方が良いのだ。

温室で育った野菜に、天然の野菜が駆逐される。こう言ってしまうと語弊があるかもしれないが、そういった面も少なからず感じたりする。

だったら時代に合わせて、潮流を迎合すべきなのだろうか。



■魂を削るということ。

「創作は生い立ちへの復讐だ」という言葉を嘲るひとたちは、少なからずいる。困ったことに創作の現場に於いてもだ。そういうひとたちは往々にして、例えばカメラならシャッターを切るだけで、例えば音楽なら弦を鳴らすだけで、例えば裁縫ならミシンを動かすだけで、それぞれが完成すると思っている。机上の理論ばかりを振りかざして、根本を理解していないことが多い。彼らはきっと否定するだろうが、そういう彼らの作るものは、どこか、どこにでも落ちていそうなもの、あるいはそれらのパッチワークだったりする。しかしそういう観客の人生に当たり障りのない作品が好まれている側面があることもまた事実だ。消費される物語たち……。


作品を生み出すということは、ともすれば苦行だ。魂を削らなければならない。「何事も嫌になってからが本番」という言葉の通り、創作というのはどこか苦痛であるべきだと僕は思う(勿論その苦痛を「苦痛と思うか」は別の問題だ)。創作行為を分娩に例えれば、何人もの子供を産み落とさなければならない。しかしそれは同時に、作者自身へと返ってくるものでもある。「子供がいないと母親は存在できない、だから子供を手放さない」。それと似て、作家たちも自分の作品を以って、作家たりえるのだろう。


まるで、「わたし」が「わたし」であるということの証左のように。


僕の人生は決して平易なものではなかったと思うし、掃いて捨てるほど世界に溢れた幸福でもなかったと思う。そしてその欠落を、作品の登場人物たちが埋めていく。あの日出来なかったことを、登場人物は乗り越えていく。そのことで以って自己の欲求不満を満たす。まるでタイムマシンで過去を改竄するように、代替行為として登場人物たちは作者の人生の欠落の補完を促す。それがいいことかどうかは別としてだ。

もし「生い立ち」への復讐心が、創作や表現の源泉ならば、個人の中にある物語は、そう幾つもないだろう。自分の中にある物語もそうだ。
  (幾原邦彦 (@ikuni_noise) 2013年4月25日)


「人生の欠落」が作品の原動力になるとしたら、僕の人生は作家として合格点なのだろうか。そして同時に僕はこうも思う。――僕はきっと倖せになった日に、ものを作れなくなるだろう、と。


創作行為に「生い立ちへの復讐」を持ち込まないひとたちは、倖せになっても(≒欠落が補完されても)創作行為を続けられるに違いない。「創作行為=生い立ちへの復讐」という考えに則れば、そうでない作品群は既成作品のパッチワークに過ぎないからだ。勿論これが暴論だということは解っている。だが僕には、倖せになったあとで物を作るということに対する意識を、金を稼ぐという以外の方向で考えられない。創作するために生きるのではなく、生きるために創作をする。それは例えば、アーティストとクリエイターの違いと言ってもいいかもしれない。


僕は倖せになるために作品を生み出す。
倖せになるということは、承認欲求が満たされることかもしれないし、誰からも愛されるということかもしれない。たった一人の女性を愛し続けることで果たされることかもしれない。
けれどそのために、その欠落を埋めるために、僕は、僕自身の、生い立ちに対して、向き合って行かなければならないと思っている。

倖せに生き、倖せに作品を作ること、それもまた否定はしない。そうやって生み出される傑作もあろう。だが僕には、それは出来ない。僕はぼろぼろの人生を、どうにかこうにか補完することでしか倖せにはなれない。そしてその補完は、きっと作品の登場人物たちの手にかかっている。


僕は「僕」でありたいと思っている。
人生に折り合いをつけることが「オトナになる」ということならば、僕はまだ幼年期の終わりにすら立てていないのかもしれない。だがそれもまた良しだ。ひとはいつか死ぬ、早いか遅いかだけだ。その人生がどうあったかを決めるのはいつだって他人だ。だったら自分のやりたいようにやって、社会評価点なんてものはカエサルのものはカエサルに」だ。死んだ後に気にすることじゃない。

そうして僕は、せっかくこうして欠落を残したまま成長してくれた「自分の生い立ち」に感謝し、感謝の言葉を呪詛のように囁きながら、それに復讐していくことだろう。「生い立ち」に「欠落」がある限り、僕は僕であり続けるための創作活動に魂をじりじりと焦がすことが出来る。欠落のない人間がいまさら欠落を作れないように、その欠落こそが「僕である」ということに繋がる。

その果てで生まれたものが、倖せの温室で育った人間たちの作品と比して、どうあるかを決めるのもまた、僕ではないのだ。


「人生の欠落」とは本来「不自由」なものである。恵まれた環境や倖せな人生という「自由」は、犠牲となってしまったということだからだ。だが僕は、少なくともこうして「他人とは違う欠落」を以って作品を生み出せる機会を得たことに、そしてそうして得た「復讐で以って創作するという自由」に対して、感謝を捧げるばかりである。

そして今日もまた僕は、書き途中の脚本に向かうのだ。

ある自由を犠牲にして、別の自由を得る。ぼくらは自分のプライベートをある程度売り渡すことで、核攻撃されたり、旅客機でビルに突っこまれたり、地下鉄で化学兵器を撒かれたりすることなく生きていける。
       (伊藤計劃虐殺器官』)


 

『しかばね少女と描かない画家』

■昨日たわむれに本屋に行った

んだけど、というか買いたい漫画があったからなんだけど、それを探している最中に、なんだか惹かれて手に取った漫画が、

f:id:KreuzLichitler:20160128132158j:plain
www.amazon.co.jp

だった。『しかばね少女と描かない画家』
別に平置きされていたわけでなくて、一冊だけ新刊コーナーの棚に挿してあったんだけど、なんか誰かが手に取ったのか奥まで差し込まれておらず、少しだけ浮いてた。それで気になって観てみると、いやはやなんだかおもしろそうだぞと。だけど表紙絵に騙されることは少なからず経験しているので(??「はぁーまた表紙に騙された」)、そういうときには全一巻だと非常に嬉しいんだけど今回は続刊らしく、ちょっと店内で悩む。一応Amazonさんでレビューを調べてみるけど0件。それもそのはず、発売日がなるほどyesterdayじゃねーの。


というわけで、しばし自問自答しながら、友人にLINE。

「漫画買うけどつまらなかったらきみに贈るよ」

いや、別につまらなくても実際に焚書を頼んだりはしないんだけどね。なんというか、保険。そんなふうに後押ししてもらって、漫画を買ったよ。あ、最初に探してた漫画『純水アドレッセンス完全版』も見つけたので購入。これは資料としての面が強いかも。

純水アドレッセンス 完全版

純水アドレッセンス 完全版



■りりりりりりりリリ。

で、帰ってすぐに『しかばね少女と描かない画家』を読んでみたけど、なんだこれ、すごい面白いぞ。

まず重要なポイントとして絵が綺麗だ、これは重要だ。話がつまらなくても最悪画集として眺められれば保管に値する。けれど絵が汚いと、ちょっと難しい。ちなみにここでいう綺麗とか汚いというのは上手下手っていうこともあるけど、それが100%ではないことに留意されたい。まあ自分の書棚に置くこと、そしてそれを見られることに拒否感の出ない作品だったらいいよねっていう、感覚の問題だったりする。そしてこの漫画は、書棚に飾るに値する綺麗さがあったよ。

物語としては、天才女流画家ジュリの死を嘆いた博士が、少女の遺体にジュリの魂を移植、それが少女リリ。そんな半死人のリリに、絵を教えてやってほしいと頼まれたのが、ひきこもりの青年画家ネルだった。――というようなもの。

劇中の年代は明記されていないが(見落としてたらゴメンナサイ)、19世紀くらいではないだろうかと、なんとなく。世界観としては屍者の帝国に、主人公ネルとリリの関係としてはBLOOD ALONEに近しいように感じた。

天才画家の魂を移し替えられたリリは、青年ネルのもとで絵を学ぶことになる。しかしこのリリがなかなか不思議な設定で、遺体だったわけで、食べたり飲んだりすれば食物は体内で腐るし、無理をすれば肉体が損壊する。言ってしまえば生きた機械人形なわけだが、ローゼンメイデンに出て来る薔薇乙女たちよりは無機物的と言えるか。フランスの医学者、ド・ラ・メトリは「人体は自らゼンマイを巻く機械であり、永久運動の生きた見本である」(『人間機械論』)なんて書いたらしいが、少女リリは、その女流画家の魂を移し替えられたという一点のみを支えに生き、動いている。死んでいるのかどうか、どうして生き返ったのか、そんなことはリリの可愛さの前では些末な問題に過ぎない。

で、まあ、無理をするとぼろりと腕がもげてしまったりするリリを、青年画家は補修してやる。この補修が、僕にはなんとも甘美に思えてならない。まあ繋げてヒビや傷を絵具で隠してやるだけなのだが、その関係性が素晴らしい。ちなみに泣いたりしても塗装が剥がれおちるので、それも補修してやる。メイク道具ではなく、絵具と絵筆でやるのが、なんとも愛らしい。画家という職業としかばね少女という設定を、うまいこと利用している。この関係性はBLOOD ALONEのときにも感じた良い関係性だ。実際に球体関節人形を一から作って娘を産んだ僕としては、なんとも自分を重ねて見てしまうからか、こそばゆくもあるが笑。


この漫画は、少女リリを通して絵を描くということの〈本質〉を探ろうとしているように思う。美麗な筆致と面映ゆい関係性。曲がりなりにも、絵を描くことでお金をもらえる立場にいる自分としても、この漫画は何かのきっかけになるのではないかと感じる。青年と少女以外にもクセのある、それでいて嫌悪感のないキャラクターが登場し、そしてそれぞれが絵に対して異なる意識・考えを持っている。どう展開していくのか、先を楽しみに思う。

気になる方がいらしたら、公式ページで1~3話と最新話が読めるので、読んでみて欲しい。リリちゃん可愛いから。ほんと。


online.ichijinsha.co.jp

ペロフェスに行きたい&トレス台を買ったよ。

■ぺろぺろぺろ。

ペロフェス2016に行きたい。唐突だけど。
ライヴなんて何年も行ってないし、行きたいよう行きたいよう。「PAINT ROCK FES. 2016」。誰か一緒に行ってくんねーかなぁ。



■スケスケだぜ(by跡部様)。

さて、トレス台を買った。B4サイズ。
横向きと縦向きを背面足で交換できたので、迷うことなく楯として使う。違った、縦として使う。楯としてってなんだよ楯の会かよ。

かつて電球とガラス板と合板で簡易トレス台を作ったことがあるんだけど、こいつは届いてびっくり、厚みが1センチもないんだもの(8mmらしいよやったねたえちゃん)。すげぇ。まだ使い心地がどんなふうかは確かめてないけど、いい感じっぽい。きっと跡部王国のようにスケスケなんだろうなと思うとワクワクする。早く描きたいけど、焦ってはいけない、焦ってはいけない。きちんとストーリーを考えてから、描いていくのだ。

自慢ではないけれど、僕は、音楽以外の創作活動だったら、とりあえずは何でも人並みかそれ以上には出来る気がしている。でも、人生最後の創作物はじゃあ何だろうと考えたときに、きっとそれは「絵」なんだろうなと思ったのだ。そんな絵のためだったら、画材を買うのに躊躇いは要らない。だって言うなれば人生なのだから。自分の人生を表象する事物に対して、金に糸目をつけてても仕方ないと僕は思うよ。まあ、刹那的な買い物も悪くないけどね。でもまあ、トレス台なら最悪誰か貰い手もいるだろうし、押し入れで腐るような代物でもないから、8000円くらいなら買ってもいいんじゃないかなと思った次第で。

とりあえず2016年上半期の目標は、漫画を一本完成させることだ。AQLがんばる。


f:id:KreuzLichitler:20160127155025j:plain
スマホで電話中に撮ったから画質ひどいです、申し訳ない)

光るトレス台に乗っているのは、センチメンタルサーカスのシャッポちゃん。こいつほんとかわいい。抱いて寝ると朝どっか行っちゃってるので、一緒には寝ないよ。残念。


まじか、おすわりすんのか。

ゲット・アップ・ルーシー、つーか俺。

「たいていの作品の犬は、僕よりかしこい」
             (AQL)


■なんか知らないうちに

このくその先ほども人生の役に立たないであろうブログも、どこからどうリンクを踏み損ねて来たのか、想定していたよりも多くの方々にご覧になっていただいているようで、大変ありがたく思います。本当にありがとうございます。まあリンク踏んじゃっただけですぐにお帰りになられた方も多いことと思いますが、それでもこっそり励みになっております。もちろんコメントなどもご自由にどうぞ。


そんなわけで、もう少しはこのブログも意味のあることを書けよ、と自戒自戒の日々でございます。というかせめて毎日更新しろよというお叱りの声、届いております。大変申し訳ない。


本来であれば駄文を引っ提げて、くだらないことをつらつらと書き留めて、かつ広大な電子の海に放とうというだけの、要するに自分の生きた証をまるで傷痕のように残そうというだけのブログだったのです。だけどここまで多くの方に読んでいただいているのであれば、ちょっとくらいは中味のあることを書いた方がみんなはっぴいなんじゃないかと思うわけで。さながら民俗学で言うところのマヨヒガのように、ここに迷い込んでくる老にゃん若にゃん男にゃ女んたちのために。


起きろ俺。がんばれ俺。





THEE MICHELLE GUN ELEPHANT -ゲット・アップ・ルーシー(Live)

Get up Lucy

Get up Lucy

肉体の悪魔Ⅱ

■ようやく、なのか?

最近、自分の肉体が、自分のものであるという、名状しがたい"実感"を得ている。自分の腕が自分の腕であると信じられる。自分の脳が自分の脳だと自覚できる。自分が自分のものであるという、茫漠とした感覚。

今なら何でも出来る。そんな気がする。ゲームの脚本もロゴデザインもマンガの脚本も、今ならできる。そしてきっと、今しかできない。

そう遠くない未来、僕の身体は、無機物の模造品へと代替されるだろう。そのとき僕は、それでも生きたいと願うだろうか。僕の身体が僕のものであり、そして僕だけのものであるという確固たる証左……。


なぁ、きみなら何と言う?

"僕"が僕のものでなくなる前に、
僕を荼毘に附してくれ。

読める、読めるぞ!

志村貴子さんの本を買ったら

TSUTAYAのマンガレンタル5冊無料券を貰えたので、さっそく使って借りてみた。資料やら趣味やら地雷期待やら、謎謎謎なレパートリー。でも初めて借りてみたけど、案外悪くないものだね、マンガレンタル。

ついでにあいまいみーをレンタル。脳味噌が溶けたのでいかんせん感想は書けない。映像特典の「妄想アイロニー無限ループ再生」で脳味噌溶けきりました。



■借りた本。

さよならソルシエ 1 (フラワーコミックスアルファ)

さよならソルシエ 1 (フラワーコミックスアルファ)

マンガ家さんとアシスタントさんと 1 (ヤングガンガンコミックス)

マンガ家さんとアシスタントさんと 1 (ヤングガンガンコミックス)

そんな未来はウソである(1) (KCデラックス 週刊少年マガジン)

そんな未来はウソである(1) (KCデラックス 週刊少年マガジン)


気になってたけど失念してたさよならソルシエをついに読む。悪くない。近々2巻も借りよう。